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怖がりオバケ

只今12時22分。

お昼。

今日は「嫌われる」、という事、というおはなしを。

西野さんのXに載っていた記事を読んだ。

今テレビによく出てくるのどうしてなのか?という内容から今までの活動を紹介する記事。

「嫌われる」を面白く変換して笑いの方へ持ってく、なんて強いなぁと思った。

誰だって嫌われるのなんてイヤだと思う。

でも、それも年月が経ち、今は全部を飲み込んで笑って話してくれている。

もしかしたら昔されたイヤな記憶も心のどこかに残り、時々ひょっこりと顔を出す時もあるのかもしれない。

それは本人にしか分からない深い話です。

明確に何か悪い事をしたのなら、それも受け入れられるものかもしれないけれど、西野さんの場合は、その昔、人が知らない事に挑戦して、試してみて、それを紹介してみた結果の拒否反応から来たもの。

知らない事は、「怖いし嫌い」になった。

「嫌われる」には、きちんとした理由など無くても1人が嫌いの種を撒けば、それはドンドン増えてあっという間に「嫌いだ祭り」になり、その祭りに寄せ付けられてなんだか分からないままその嫌い祭りに参加している、という事も多いのかもしれない。

そんな国なのかもしれないニッポン。

ホントの所は、祭りに参加してる人一人一人に会って、ちゃんと対面会話を持てば、1分で誤解や行き違いなどが解消するはずなのに、人は思い込んだらその嫌い感情を止めません。

どうして、もしかしたら・・・と、一回立ち止まってくれないのだろう。

1人の意見だけを聞いて、それを真実だと思い込むのか不思議。

もう一方の話を聞いて、ようやく少し何かが見えてくるはずなのになぁ、と。

もしかしたら両者の意見を聞いても真実なんて見えてこないのかもしれない、とも思ったり。

お互いに少しの誇張や、自分の否を小さく伝えたり隠したり、嘘をつく場合もあると考えると、ホントの所はどこなんだろ、となったりする。

だからそのくらいに判断するのが難しいのだから、簡単に「嫌い」は言ってはいけないような気がしてしまった。

記事の内容は、決して西野さんを笑ったりするものではなく、なんというか、記事の中に西野さんへの尊敬心と愛情がこもってるような記事内容でした。

西野さんは愛されているのだと思う。

今日は少しだけ自分の中身を話すと、

多分私は嫌われる事が凄く怖いのだと思う。

自分、という変なトコを知られたり、つまらない人であるのを知られるのも怖いのだと思う。

しっかりしてないトコも恥ずかしくて見せられません。ダメ人間を見せられない。

もう少し人と深く仲良くなれたらな、と思うのに、ガッカリされたくない、ばかりが強く出て何も動けなくなる。

応援されるような部分が1つも無い事が恥ずかしいのです。

よく見られたいだけのオバケ、というお話でした。

おかえりなさい。

今日もお疲れ様でした。

2025年10月5日(日)

今は午後の15時46分。

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